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リトアニアの内戦 (1381年-1384年) : ミニ英和和英辞書
リトアニアの内戦 (1381年-1384年)[りとあにあのないせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [うち]
 【名詞】 1. inside 
内戦 : [ないせん]
 【名詞】 1. civil war 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

リトアニアの内戦 (1381年-1384年) : ウィキペディア日本語版
リトアニアの内戦 (1381年-1384年)[りとあにあのないせん]

1381年から1384年にかけてのリトアニアの内戦は、リトアニア大公で後にポーランド王となったヨガイラと、その従弟ヴィータウタスの間で起きた最初の権力闘争である。ヨガイラがヴィータウタスの父である叔父のケーストゥティスと争う目的から、ドイツ騎士団ドヴィディシュケス条約を結んだことが内戦の発端となった。ケーストゥティスは短いあいだ大公国の権力を奪取したが、ヴィリニュスの人々を始めとするヨガイラの支持者に失墜させられた。ケーストゥティスとヴィータウタスは和平交渉中に捕えられ、クレヴァ城に監禁された。ケーストゥティスは監禁された1週間後に死んだが、ヴィータスタスはどうにか脱出に成功してドイツ騎士団と同盟を結び、両者の連合軍がリトアニアに攻め寄せた。結局、ヨガイラの側がリトアニアのキリスト教化に向けたモスクワ大公国ポーランド王国との交渉を進める態勢を整えるため、国内の安定が必要になり、ヴィータウタスとの和解に踏み切った。権力闘争はこれでは終わらず、2度目の抗争である1389年から1392年にかけてのリトアニア内戦が、オストルフ協定の締結によって解決するまで続いた。10年以上にわたる争いの末、ヴィータウタスはリトアニア大公の座を手に入れ、38年間にわたって大公国を統治することになる。
== 背景 ==
アルギルダスケーストゥティスの兄弟は平和的にリトアニア大公国を統治していた〔。アルギルダスは大公として、正教徒スラヴ人が住む大公国の東部地域の統治に専念した。ケーストゥティスは大公アルギルダスの名の下に、大公国の西部地域の統治を担い、ドイツ騎士団から国境地帯を防衛した 。アルギルダスが1377年に死ぬと、彼とその2番目の妻トヴェリ公女ユリヤニヤの間の最年長の息子であるヨガイラが大公位を継いだ。ケーストゥティスとヴィータウタスは、アルギルダスとその最初の妻ヴィーツェプスク公女マリヤの間の最年長の息子ポラツクアンドリュス(アンドレイ)が大公位の相続権を主張してヨガイラと争った時も、ヨガイラとの協力関係を維持した。
ドイツ騎士団は異教国リトアニアへの十字軍遠征を続けた。1378年には大規模な遠征軍が組織され、ドイツ騎士団はプリピャチ川沿いのブレストにまで兵を進めた〔。リヴォニア騎士団ウプィテを攻撃し、次の遠征では首都ヴィリニュスを脅かした〔。1379年の夏、ヨガイラの弟スキルガイラが、リトアニア国家のキリスト教への改宗に関する可能性について交渉するためと、アンドリュスに対するリヴォニア騎士団の支援を停止させるために、騎士団国家へと派遣された。この交渉の旅に関する仔細は不明で、スキルガイラは神聖ローマ皇帝の許を訪れたという話も伝わっている。スキルガイラの旅はその目的も結果もはっきりとはしないものの、この旅はケーストゥティスに対するヨガイラの最初の陰謀と言われている〔 〕。一方、ケーストゥティスは騎士団に対して和平交渉と捕虜の交換を申し出ている。1379年9月29日、ケーストゥティスとヨガイラが最後に共同で署名した10年間の和平条約が、トラカイにおいて結ばれた〔。この和平条約は、ヨガイラと騎士団が3日間にわたりヴィリニュスで秘密交渉を行った後で、結ばれたものだった〔 〕。しかしながら、この和平条約によって守られたのはキリスト教地域である大公国の南部地域のみであり、ケーストゥティスの支配する大公国北部・西部の異教地域は、依然としてドイツ騎士団の攻撃対象のままであった〔 〕。
1380年2月、ヨガイラはケーストゥティスを無視して単独でリヴォニア騎士団と和平条約を結び、5ヶ月間リトアニアのヨガイラの領国を攻撃せず、またヨガイラの異母兄アンドリュスを支援しないことを騎士団に約束させた〔。1380年5月31日、ヨガイラとドイツ騎士団総長ヴィンリヒ・フォン・クニプローデは密約であるドヴィディシュケス条約を結んだ。条約の諸条文は端から端まで絡み合う形で書かれており、完全な形では読み取れない〔 〕。この条約の条文によれば、ヨガイラはドイツ騎士団がケーストゥティスないしその息子たちを攻撃した場合、それを邪魔しないことに同意した。ただし、もしヨガイラが自らの内通を隠すためケーストゥティスを支援したとしても、条約の内容には抵触しないともされていた〔 〕。この条約はその背景となった動機がはっきりしないため、その点をめぐり歴史家たちの間では見解が一致していない。一部の歴史家はヨガイラの母ユリヤニヤや側近のヴァイディラがヨガイラを唆したのだ、とする。別の歴史家たちはケーストゥティスとヨガイラの大きな世代の開きが、両者の政治的決別につながったとする。ケーストゥティスが80歳前後でキリスト教には改宗すまいと決めていたのに対し、ヨガイラは30歳前後と若く、改宗してリトアニア国家をキリスト教世界の仲間入りさせる道を模索していたのだった。さらに他の意見としては、条約は当初はヨガイラの大公位をめぐるライバル、ポラツク公アンドリュスとその同盟者、アンドリュスの同母弟ブリャンスクドミトリユス(ドミトリー)とモスクワ大公ドミトリー・ドンスコイを仮想敵としていた、とするものがある〔。ヨガイラはリトアニア国家の西部国境をより安全にするため、モスクワ大公国との間でやがてクリコヴォの戦いを引き起こすことになるジョチ・ウルスと同盟していた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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